長屋の子育て日記

根津の長屋の子育ての日々について写真と文で綴る
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師弟


弱さについて考える。

無知、未熟、
新参者の負い目、
祖先への祈り、
神への畏怖、
私たちを駆り立てるのはこれら、
絶対的な「弱さ」の認知である。
師と弟、
古参者と新参者、
祖先と子孫、
神と人、
これら抗いようのない絶対的格差が、
私たちの成長と成熟を保障している。

師弟とは互いの
成熟度の優劣により仮構された
運命共同体である。
弟は師に、
後生は先生に自らの劣位性を仮託することで
無知と蒙昧による成長の機会を保障されている。
翻って師は弟に、
先生は後生に自らの優位性を仮託することで
矛盾と葛藤による新たな成熟の機会を保障される。
仮構された絶対的格差による
成熟の社会システムである。

学ぶことは、伝えることは
この社会文化的仕組みを活かすことである。
弱さゆえの強さ、
未熟ゆえの成熟、
思い上がれば未来のない所以である。
さあて僕らの子育てはどうか。


| 雑感 | 22:02 | comments(0) | trackbacks(0) | けいじ |


僕らの祖先はこの煌めきのなかに
形にならない存在を見てきた。
神であったり老婆であったり、
はたまた艶やかな乙女であったり、
そうして目に映らない存在への畏敬と慎み深さをもって、
子どもたちを教化してきたのである。

それら生活の威厳を手放した
僕らの暮らしはどうだ。
畏れ敬う不確実な存在を奪われた
子どもたちの日常はどうだ。
煌めきのなかに今なお佇まいを正し続ける
彼女らのひっそりとした息づかい。
そんな慎ましやかな美しさを忘れた
僕らの暮らしはどうだ。


| 雑感 | 22:31 | comments(0) | trackbacks(0) | けいじ |
奇跡の町(2)
この町には自分のものがない。

玄関も縁側も自分のものではない。
ご近所が「ちょっとごめんよ」と入ってくるための場所である。
風呂もまた自分のものではない。
自宅にこしらえた自分専用の風呂を人は「内風呂」と呼ぶ。
醤油もまた自分のものではない。
うちにあってもわざわざ人に借りに行くのが長屋暮らしの掟である。
子どももまた自分のものではない。
いたずらを見れば誰かまわず叱る人がいて、
フラフラしていれば捕まえて連れてくる人がいる。

そしてそこにはやはり、
そんな暮らしにプライバシーがないとうそぶきながら、
その開放的な気安さに浸かった人たちの
無数の安堵の溜め息がある。

顧みるものもない都会の片隅に、
失われた暮らしの文化が細々と息づいている。
奇跡の町がここにある。



| 雑感 | 23:41 | comments(0) | trackbacks(0) | けいじ |
奇跡の町
この町にはコンビニがない。
マクドナルドもなければデニーズもなく、
ツタヤもダイソーもない。

そこにあるのは不便な町だとぼやきながら
ここに生まれここに骨を埋める人たちと、
おかしな町だとうそぶきながら
ここに流れつきここに新たな命を紡ぐ人たちの、
静かで平和に満ちた無数の溜め息だけである。

留まることなく谷間を吹き通す神代の風と
今も路地に居座る幾多の地神たちに守られた、
奇跡の町がここにある。




| 雑感 | 22:27 | comments(0) | trackbacks(0) | けいじ |
生き甲斐


あるサックス吹きは自らのクリスチャニティのままに
その時間を音のシーツで埋め尽くそうとした。
私たちのこの24時間も同じく
何かによって埋め尽くされることを求めている。

少し前までの僕らは、
寄り合いや井戸端会議という方法を知っていた。
これら無限に伸延可能で真に公共的な時間の代わりに
私たちの一日を埋め尽くしたものは何か。
至極個人的な「仕事」である。
たとえそれが「公共」に属する種類のものであっても、
従事しているその時間が1時間いくらと切り売りできる
そんな種類のものである限り、本当に公共的な時間ではない。
すべてを切り売りした先に残るのは余計な時間だけである。
余計な時間は価値のない時間である。
そこには時の経つのを忘れる感覚もない。
切り売りできない時間の中にだけ本当の時間の豊かさがある。
それが何の役に立つのか本人にもよく分からない時間、
この努力がいったいどう報われるのか見当もつかない時間、
そんな時間の積み重ねが本当の生き甲斐だった。

無意味なこと、大変なことを避けて楽な道をラクに
進むことだけを考えて生きてきた三十路男がようやく気づいた、
この大変さこそが生き甲斐だった。
夢を喰うバクのように喰い続けたい。
ああ今日もお腹がへった。

| 雑感 | 21:50 | comments(0) | trackbacks(0) | けいじ |
なぜいま子どもの遊び場か


駒沢はらっぱプレーパークへ遊びに行く。
ここは都内でも羽根木に次いで歴史ある冒険遊び場である。

成立年代の異なるさまざまな遊び場を見ていて思う。
古くから続く冒険遊び場の大部分が行政主体でなく住民主体であり、
そして、
1.創始期は乳幼児の親子のグループを中心に活動し、
2.その子らが学齢期を迎えるとともに黎明期を迎え、
3.やがて大きくなった子らのうちにスタッフを見出して安定期に入る、
そんなステップを歩んできている。
そうして、
そんな創始期の親が2〜30年の歳月を経て、
子育てを終えた今も世話人やコアメンバーとして、あるいは
地域の重要なステークホルダーとして関わっている。

彼ら彼女らを惹きつけているものは何か。
とりわけ乳幼児期の親には、連帯と友愛の価値を信じ、
これに身を投じる精神的・物理的な必然性がある。
そうして信じ、身を投じた場所には、
一人ひとりの主体的な出会いや学びが生まれる。
師弟や恋人の関係と同等か、
あるいはそれ以上の求心力である。
反対に、
信じられない、投じられないところには出会いも学びも生まれない。
この社会にそれを可能にする時機や場所がどれほどあるだろうか。

いま子どもの遊び場である。
| 雑感 | 20:54 | comments(0) | trackbacks(0) | けいじ |
我が身を投げ出してその子どもに与えよ
子どものお手本だと思えば苦しい。
お手本は別にあって、
子どもと一緒にそのお手本に進んでいるのだと思えば楽だ。
子どもの理想の標的だと思えば苦しい。
理想の標的は彼方にあって、
自分も子どもの先きに立ってそれへ向って専心進みつつあるのだと思えばらくだ。

(中略)

子どもにとってうれしいことは、
我等がいかに立派な人間であるかよりも、
我等をいかに十分に彼等に与えてくれるかである。
子どもにとって最も幸福なことも、
教育にとってもっとも肝心なことも、
恐らくこれに他あるまい。

我等は何をやるかでなくて、
我等自身を与えることである。
それだけが我等に出来る。

(倉橋惣三「幼稚園雑草『我等の途』」より)
| 雑感 | 20:58 | comments(0) | trackbacks(0) | けいじ |
金木犀の香り


体験とは、知覚された地時点にもうひとりの「私」をつくる行為である。

そうして過去に切り離され置き去りにされた無数の「私」が、
遠く離れた唯一の現在の私を呼び続けるのである。

欲求はこの呼び声に応えんとする私の切ない願いである。
永く生きれば生きるほどこの切ない思いは募り、
遠く離れれば離れるほど願いは哀愁へ変わる。
こうしてノスタルジーが生まれる。

金木犀の香りにノスタルジーを感じるとき、
私は過去にその立ち込める空気に存在した幾多の「私」に引き寄せられている。
今につづく未来の私を位置づけるのもまた、この呼び声である。
いつかこの香りがまた、君らを呼ぶのだろうか。

| 雑感 | 14:38 | comments(0) | trackbacks(0) | けいじ |
七歳までは神の内


私たちの先祖は子どもの生まれ持った神性や脆弱性を指して
「神の内」といった。
神の世界は予測不能の世界である。
そこには効率や確実性、ルールやリスク管理といった人為は通用しない。

ただそれだけではない。
人為を超えた神の領域に生きる存在である子どもを
自らの内に取り込もうとする親の決然とした覚悟は、
同じく人外の者に対峙する呪術者や宗教家のそれと似ている。

ただそれだけでもない。
生まれながらにしてありのままの自然を体現する存在である子どもを
一切の自然を排した人工の都会で育てようとする私たちの覚悟は、
同じく万難に立ち向かう異教徒や殉教者のそれと同等である。

子を育てることは大人と子どもの境界を越えることである。
この境界は人為と自然の境界そのものであり、
個と全体を分かつ最後の防衛線でもある。

積み重ねてきた人為の歴史を遡り、
神の領域に立ち戻る覚悟が求められている。
| 雑感 | 20:28 | comments(0) | trackbacks(0) | けいじ |
草ほど気がおけないものはない
草ほど気がおけないものはない。
低く小さく、地にくっついて生えている草に、
誰れも遠慮も感ぜず、気がねもない。
それは、草が気どらないからである。
だから、こっちも気がおけない。
子どもにとって殊にそうである。

草はどこにでもある。
お庭でなければ生えぬとか、
花壇でなければ植えられぬとかいう、
おつに構えた気位など見せない。
人に見られようが見られまいが、
どこにでも平気でいる。

その上、踏まれても平気である。
少々ぐらいむしられても平気である。
子どもたちの元気な足の下に、
おとなしく抑えられている。
もっとも、子どもの方だって、
憎くていじめるのではない。
むしろ親しさに可愛ゆさに、
草の怒らないことを知っているからそうするのである。

(倉橋惣三「子どもと懇意な草」より)
| 雑感 | 08:28 | comments(0) | trackbacks(0) | けいじ |
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